2014.05.17 Saturday
5/17講演会「シェイクスピアに出会うまで、そして出会ってから」
2014支部の集い 第ニ部 講演会
翻訳家・演劇評論家 松岡 和子 先生
「出会うまで」
○幼いころから、ネイティブの英語に接触
満洲国政府の高官であったお父様が、終戦後、ソ連に抑留され、11年後にご帰国(10年間は生死も不明)
東女の先輩であるお母さまは、その間、和子さん、妹さん(東女‘66文社卒)、生後間もない弟さんの生活を支えられた。東女時代の同級生が恩師であるチャペル先生を迎えて子供たちのために英語教室を開き、ダイレクトメソッド(英語のみの授業)を実践していた。
和子さんは妹さんと幼いころからそこに通ってネイティブの英語に触れ、英語大好き少女になられた。
少女時代、村岡花子訳“赤毛のアン”を読み、魅力的な翻訳の仕事を知る。(今の原点)
○英文科へ シェイクスピアが近づいて
高校時代の英語の広瀬先生(津田出身)にあこがれ、津田と東女と両方合格。
津田への入学手続きの日が雨降りで、結果、東女入学。
恩師コールグローヴ先生の英文の授業は楽しく、山のような課題〈原書〉と格闘し勉強に励む。
シェイ研(原語でシェイクスピア劇)を覗くも、厳しい雰囲気に逃げる。
○遠回り
洋画研に入って、絵画づけ。ある年の文化祭に洋画研は、舞台美術家・朝倉摂さんの講演会を開く。のちに親しくなり、「芝居は花火と同じ、消えるからいい」の言葉に感銘を受ける。
○また近づいて
シェイ研の先輩に勧誘されて「夏の夜の夢」のボトムを演じ、芝居の世界で生きてゆきたいと思う。
卒業後、ご両親の反対を押し切って劇団「雲」の演出部(後に文芸部)の研究生になる。
劇団「雲」は福田恒存さん、芥川比呂志さんによって設立されたばかりの時。
(劇団「雲」のこの時、旗揚げ公演 「夏の夜の夢」)
○また遠ざかる
劇団では力不足を感じて、東大大学院に進学。
ジェイムズ朝の劇作家ジョン・フォードを研究。(シェイクスピアを避ける)
劇団に戻るつもりが 結婚、子育て、非常勤講師。
○逃げたつもりが通せんぼ
T・ストッパードの戯曲「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」を翻訳。
一人芝居「エドマンド・キーン」を翻訳。
(ジョン・フォード、ストッパード、「エドマンド・キーン」のいずれもシェイクスピアがベースにあり、シェイクスピアを読むことになる)
「出会ってから」
○シェイクスピアに捕まって
串田和美さんから最初のオファー
(シアターコクーン上演予定の「夏の夜の夢」の翻訳依頼)
東京グローブ座からオファー
(「間違いの喜劇」「ロミオとジュリエット」)
銀座セゾン劇場からオファー
(蜷川幸雄演出の「ハムレット」、デヴィッド・ルヴォー演出の「マクベス」)
筑摩書房の出版の企画では、上記5本だけでなく全部翻訳要請。
(表紙:安野光雅さん)
蜷川幸雄さんからのオファー
(さいたま芸術劇場でシェイクスピア劇全37作を松岡訳で上演予定)
松岡先生のシェイクスピアとの関わりを伺っていると、どんな遠回りも、大変なことも、人との関わりも、後に全て大切になる、と思いました。
お父様の苦難、お母様の戦後のご苦労、女子教育に開明的なご家庭環境、チャーミングなお母さま(ミーハー族の下のドレ族!)、お住まいが阿佐ヶ谷(東女に近い)、恩師の方々、劇団「雲」の方々、演出家の方々(出てきたお名前だけでも、立派な演劇史です)との出会い。
もう、このまま、朝ドラになりそうです。
昨年上演された「ヴェニスの商人」のめったに見られない貴重な稽古のシーンもDVDで見せていただきました。
同窓生からの質問「シェイクスピアのテーマとは」に「世界は舞台、人は男も女もみんな役者、この舞台への登場は誕生、退場はこの世から消えていく死」がテーマ、とお答え下さって、更にシェイクスピア最後の戯曲「テンペスト」の最後のセリフ
いまの役者達は、みな妖精だ。
そしてもう空気に融けてしまった。
だが、いまの幻影と同じように、
豪華な宮殿、高い塔、荘厳な寺院、巨大な地球そのものも、
この地上のありとあらゆるものは、やがて融け去る。
あとにはひとすじの雲も残らない。
我々は、夢と同じ糸で織り上げられている。
ささやかな一生をしめくくるのは眠りなのだ。
と、凛とした声で表現された時は、普通の会議室の空気が変わって、劇場のように感じました。
とても、楽しく貴重なお話の数々でした。
Y.K
翻訳家・演劇評論家 松岡 和子 先生
「出会うまで」
○幼いころから、ネイティブの英語に接触
満洲国政府の高官であったお父様が、終戦後、ソ連に抑留され、11年後にご帰国(10年間は生死も不明)
東女の先輩であるお母さまは、その間、和子さん、妹さん(東女‘66文社卒)、生後間もない弟さんの生活を支えられた。東女時代の同級生が恩師であるチャペル先生を迎えて子供たちのために英語教室を開き、ダイレクトメソッド(英語のみの授業)を実践していた。
和子さんは妹さんと幼いころからそこに通ってネイティブの英語に触れ、英語大好き少女になられた。
少女時代、村岡花子訳“赤毛のアン”を読み、魅力的な翻訳の仕事を知る。(今の原点)
○英文科へ シェイクスピアが近づいて
高校時代の英語の広瀬先生(津田出身)にあこがれ、津田と東女と両方合格。
津田への入学手続きの日が雨降りで、結果、東女入学。
恩師コールグローヴ先生の英文の授業は楽しく、山のような課題〈原書〉と格闘し勉強に励む。
シェイ研(原語でシェイクスピア劇)を覗くも、厳しい雰囲気に逃げる。
○遠回り
洋画研に入って、絵画づけ。ある年の文化祭に洋画研は、舞台美術家・朝倉摂さんの講演会を開く。のちに親しくなり、「芝居は花火と同じ、消えるからいい」の言葉に感銘を受ける。
○また近づいて
シェイ研の先輩に勧誘されて「夏の夜の夢」のボトムを演じ、芝居の世界で生きてゆきたいと思う。
卒業後、ご両親の反対を押し切って劇団「雲」の演出部(後に文芸部)の研究生になる。
劇団「雲」は福田恒存さん、芥川比呂志さんによって設立されたばかりの時。
(劇団「雲」のこの時、旗揚げ公演 「夏の夜の夢」)
○また遠ざかる
劇団では力不足を感じて、東大大学院に進学。
ジェイムズ朝の劇作家ジョン・フォードを研究。(シェイクスピアを避ける)
劇団に戻るつもりが 結婚、子育て、非常勤講師。
○逃げたつもりが通せんぼ
T・ストッパードの戯曲「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」を翻訳。
一人芝居「エドマンド・キーン」を翻訳。
(ジョン・フォード、ストッパード、「エドマンド・キーン」のいずれもシェイクスピアがベースにあり、シェイクスピアを読むことになる)
「出会ってから」
○シェイクスピアに捕まって
串田和美さんから最初のオファー
(シアターコクーン上演予定の「夏の夜の夢」の翻訳依頼)
東京グローブ座からオファー
(「間違いの喜劇」「ロミオとジュリエット」)
銀座セゾン劇場からオファー
(蜷川幸雄演出の「ハムレット」、デヴィッド・ルヴォー演出の「マクベス」)
筑摩書房の出版の企画では、上記5本だけでなく全部翻訳要請。
(表紙:安野光雅さん)
蜷川幸雄さんからのオファー
(さいたま芸術劇場でシェイクスピア劇全37作を松岡訳で上演予定)
松岡先生のシェイクスピアとの関わりを伺っていると、どんな遠回りも、大変なことも、人との関わりも、後に全て大切になる、と思いました。
お父様の苦難、お母様の戦後のご苦労、女子教育に開明的なご家庭環境、チャーミングなお母さま(ミーハー族の下のドレ族!)、お住まいが阿佐ヶ谷(東女に近い)、恩師の方々、劇団「雲」の方々、演出家の方々(出てきたお名前だけでも、立派な演劇史です)との出会い。
もう、このまま、朝ドラになりそうです。
昨年上演された「ヴェニスの商人」のめったに見られない貴重な稽古のシーンもDVDで見せていただきました。
同窓生からの質問「シェイクスピアのテーマとは」に「世界は舞台、人は男も女もみんな役者、この舞台への登場は誕生、退場はこの世から消えていく死」がテーマ、とお答え下さって、更にシェイクスピア最後の戯曲「テンペスト」の最後のセリフ
いまの役者達は、みな妖精だ。
そしてもう空気に融けてしまった。
だが、いまの幻影と同じように、
豪華な宮殿、高い塔、荘厳な寺院、巨大な地球そのものも、
この地上のありとあらゆるものは、やがて融け去る。
あとにはひとすじの雲も残らない。
我々は、夢と同じ糸で織り上げられている。
ささやかな一生をしめくくるのは眠りなのだ。
と、凛とした声で表現された時は、普通の会議室の空気が変わって、劇場のように感じました。
とても、楽しく貴重なお話の数々でした。
Y.K